龍谷ミュージアム

本願寺八幡別院と朝鮮通信使

 徳川秀忠2代将軍以来、将軍就任の都度、朝鮮より祝賀使節が来日し、10代将軍のときまで10回来日されました。野洲(行畑)~鳥居本の間は中山道を通らず、いわゆる「朝鮮人街道」(徳川家康の関ヶ原戦勝後の上洛道路で戦勝街道とも言う)を通行し、毎回、本願寺八幡別院を昼食所本陣と定めていました。

 右の書は、1711(正徳元)年、徳川家宣6代将軍の祝賀に趙泰億(ちょうたいおく)が正使として来日したおり、従事官の李南岡(りなんこう)が再来の感興を江戸からの帰路、七言絶句に書き残したものです。